譲る・譲れば・譲る時


人が、何をどう思うのか、どう感じているのか・・・
人を理解するということは、とても難しいことだと思います。

何事も自分を中心で考えてしまうので、相手も同じように感じているのだろうと思い込んでしまう時があります。
つい同意を求めてしまうことがあります。
「そうだよね?」「そう思うでしょ?」「それが当然だよね?」

でも、相手は、全く違うように感じていることがあります。

えっ?何でそう感じるの?
それはちょっと違うのではない・・・?
そうなのかなぁ・・・?
絶対こっちがいいと思うのだけどなぁ・・・

人の考えとは、様々で、どちらが正しいとは言い切れないのだから、よりよい人間関係を保とうとすると、相手の考えを尊重しないといけません。
その「尊重」というのが、一番難しいことだなと最近思います。
「どうでもいいようなこと」は、相手に合わせることは出来ても、自分との考えが全く違う時には、同意できないまま、相手にあわせることになります。

それが霊的カルマから来る「拘り」の範疇だと自分で自覚が出来た時は、頑張れます。
これこそ修行だ!と思えるのですが、そうも行かない時がたくさんあります・・・。
絶対自分の方が正しいのに・・・って。
自分の未熟な部分の意識が、不満を現してきます。

この地上には、「絶対的な正しさ」というものがない以上、「自分の考える正しさ」と「相手の考える正しさ」が、いつもぶつかり合っているわけです。
未熟な者同士が、お互いの「正しさ」を主張しているわけです・・・。

でももしかすると、この世の中は、実は、「どうでもいいこと」ばかりなのかもしれないと思いました。

今生で、新たなカルマを作ってしまうような事態でないのであれば、なんでもいいことなのかもしれない・・・。

ある方向さえ見誤らない限り、日常の生活では、「どうでもいいこと」ばかりなのではないだろうか・・・。

相手に、全部譲ったとしても、大してその結果には、差はないのではないかと思いました。
「自分の思うようにやれなかった」「否定された」と思うと、不満が蓄積してきますが、
「譲ってあげた」「相手が満足するようにやらせてあげた」と思うと、ストレスは少なくてすみそうです。

でも、そこに至るには、やはり、何を言っても、霊的トレーニングなわけですね・・・。

ただし、譲ったあげく、職を失ったり、給料が減ってしまっては困ります。霊的な活動に支障が出てきてしまいます。
そこは、断固として戦わなければなりません。

唯一、譲れないこととしたら、霊的な活動を阻害することに対してのみなのかもしれません・・・。

 
 


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