不自由に憧れて


最近、ちょっとした経緯で、車社会にあって車がないという状況になりました。 今まで、極端に運動不足な生活をしておりました。3年間冬眠しても大丈夫なくらいの皮下脂肪もちゃっかり蓄えてしまいました。このままでは、いざという時に動けないかも・・という危機感さえ芽生えました。

よし、丁度いい!車無しなんて、望むところだとばかりに、徒歩・バスの生活に切り替えたのでした。
毎日がまるで遠足のように、見るもの全てが新鮮で楽しく、今まで自由だと思っていた車は、けっこう不自由だったのかもな・・とか、車無しが不自由なら、不自由もいいもんだなと、感じるようになりました。

それから2ヶ月くらい経ったでしょうか、またちょっとした経緯で、乗ろうと思えばいつでも乗れた車が、本当に無くなるかもしれない状況になりました。同時に、いろんな用事が発生して、あちこち出かけなければならなくなりました。

バスを待つ間、「あ〜あ、車だったら今頃もう着いてるよなぁ・・あ〜あ、暑い。あ〜あ、何でバス来ないんだろう・・」

人(いえ、私個人)ってなんて勝手なんだろうと思いました。余裕があって、いつでもまた車にも乗れるしと思っている間は、不自由自体が、珍しくて、楽しくて、不自由を楽しんでいる自分が、ちょっと自慢だったりもしたけれど、いざ、その状態から抜け出せないかもしれないと感じた途端、不安と不満が生まれてしまう。

遠い昔、人の霊魂は、幽界という霊的世界の住人で、その幽界という世界には、不自由というものがなかったと聞きます。 地上の不自由というものに憧れ、体験してみたいと感じた気持ち、怖いけど、わかるような気がしました(これに関しては「ムーの大神人」にも書かれています。
→ http://www.interq.or.jp/mercury/w22525/reikai/reikontsushin/shoseki.htm

自分を苦しめてみたい、苦しんで何かを得てみたい、奮闘して勝ち取ってみたい、そういう自虐性とも思えるような部分を、人は備えているのかもしれません。不自由に憧れて、不自由を体験してみたいなんて、余裕があるから言えたことで、自由に戻れなくなった途端、私の自由を返して〜とばかりに嘆いたりする。

人の霊魂は、今、死んでも、遠い昔の、自由だけだった幽界には、すんなりと帰れなくなっていると知りました。命綱が切れそうで、もう、もとの場所には戻れなくなったかのようです。それでも、私たち霊魂は、本来の自由な幽界に再び帰るのが、理想だと思います。 そうする為に、今地上で、できることがあるのなら、それこそ、どんな不自由や苦難があろうと、本来の自由に帰るためにも、努力というものをしなければいけないのだろうと思います。

地上の不自由なんて、もうたくさんだ!と思うのなら、二度と地上に生まれないように、そして本来の自由な幽界に帰れるように、その為にできることは、今、自身の霊的身体を成長させることです。そして二度と、不自由に憧れないこと・・なのかな。


私自身は、自分の蒔いた種。大した不自由ではありませんが、じっくりと刈取ろうじゃあないか・・と開きなおっています。