千載一遇


 先日、東京の霊的集会の会場に向かう電車の中で、タマタマ地元の会員さんとお会いしまして、あれこれオシャベリをしました。会員が二人並んで霊的集会に行くとなれば、話題は一つです。
 その時やはり、会場までの距離の話になりました。電車に乗って一時間で会場に到着できるなんて恵まれてる、と。

 マッタクその通りだと思います。が、「距離」以上に恵まれていることが別に有る、とも思います。「時間」です。  たとえばわたしの場合、この会を知るのが5年ずれてたとしたら…、と考えると、チョッと心がざわめきます。もし5年早かったとしたら、入会の決断ができなかったかも知れません(それまで、こういう集まりとは全く縁が有りませんでしたし、夢中になってやっていた事が他にありましたし…)。
 もし5年遅かったとしたら、入会したとしても来年の4月。これまた想像できないと言うか、考えたくないと言うか…。それはそれで生きていったでしょうし、あれこれ思い悩みながらというのも、今と変わらないのでしょうが、わたしの場合おそらく、その悩みの性質が全然別種のものになったろう、と思います。今この内にあるモヤモヤを、もし悩みと呼ぶにせよ、それは本当にゼイタクな悩みだったんだ、と気づいてしまいました。

 地元の会などが終わった後で、皆さんとオシャベリしてる時に、「なぜ、どのように入会したか」という事が、繰り返し話題になります。そこで聞いたいくつかの話を思い出してみると、出会うタイミングがもし5年ずれてたら、会員にならなかったかも…、という人がケッコウいるのかも知れません。
 逆に言えば多くの人が、まさにドンピシャのタイミングで、目覚まし時計に起こされるように、この会の存在を知った、ということでしょうか。

 5年のずれでそうだとすると、出会うタイミングが10年ずれていたら、20年ずれていたら、50年、100年ずれていたら、どうなったんでしょうか。乳幼児としてでなく、百歳を越えた老人としてでなく、とりあえずあの時のわたしがわたしとして生きていて、会と出会ったということが、「最も恵まれた条件」なのかな、と思います。

 ・「お弁当、売り切れました」「もぅ無いのッ?」