「一人で」ということ


 個人的にわたしの場合、幼い頃から、一人で行動するということにコダワッてきました。一人で行動することに憧れ、一人で行動することがカッコイイと、ズッと思ってきました。
 それでも小・中学生の頃には、やはり一人で行動できることは限られていました。どうした訳か、中学・高校の時は、バスケットボールを割りと真剣にやったんですが、チーム内の人間関係がうっとうしいと思うことは、年中行事でした。

 名実ともに思う存分、一人で行動できるようになったのは、成人後だったでしょうか。たとえば、旅行に行くのも山に登るのも、一人でなくてはならない、と思ってました。実際には、友人達と旅に出たり、登山したりもしましたが、それは旅でも登山でもなく、遊びだ、と思ってました。

 そうこうしてる内に、いわゆる精神世界に興味を持つようになりました。最初は、手当たり次第にその方面の本を読みあさりました。次には、そういう本に書かれてることを、わたしも実際に体験したい、と思うようになりました。  でも、わたしが関心を持ったホトンドすべての本では、その核心的な部分を体験するには、直接の指導を受けることとか、その組織の一員になることが条件として上げられてました。一人でやるということにコダワッてたわたしは、その条件をいつも「メンドクサイ!」と感じてしまい、それ以上は踏み込みませんでした。結局、本に書かれている「一人でやれること」だけで満足するしかありませんでした(満足など出来ませんでしたが…)。

 ところで、大昔の日本人も、現代人と同様に、重要な事柄は紙に文字で記録しました。でも、ホントに大切で深遠な事が書かれているはずの所は、空白になっているそうです。たとえば、ある技法があって、その技法の一般的な部分は文字でつづられていくんですが、その核心的な部分に来ると空白になる。

 つまり日本人は、一番大切な部分は文字にしなかったようなんです。ではその空白の部分=核心部分はどのように伝えられたのか。
 師が弟子に直接伝授したようです。言葉を変えれば、ホントに重要で奥深く価値あるものは、師から直接受け取るしかない、と考えていたようです。さらに言えば、一人でやれることには、おのずと限界がある、ということでしょう。

 わたしがこの会に出会った時、「一人で」というコダワリは全く消え去って、入会すると即座に合宿の参加申し込みをしました。その合宿で師、および師の代理たりうる人々から、行法の伝授を受けました。
 そういう場に身を置いてみると、師から弟子への直接の伝授こそが、安全性にせよ効果にせよ、最も理にかなった方法だと実感しました。
 情熱は進歩の原動力ですが、情熱だけでは手の届かない領域が有ることも確かです。一人で出来ることには限界が有ります。より高みを、より深みを目指すならば、それに見合った道を進むしかありません。

 ・気をつけて! 暗い夜道の一人歩き